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当り障りのないことを書きます。

日曜日も仕事DAYになってしまった

毎日が日曜日のようなもんだから別に構わないっちゃ構わないが、不器用なのかソレがあるうちは、ソレで頭がいっぱい。本当は効率よくシャキシャキと頭を切り替えて実作業をシていない間は占い師業を並行してやれればいいんだけど、どうしてもパソコンモニタの前に座ると、ソレのことを考えてしまって。

昨日の夜になって、予定外のものが飛び込んできて結果そうなる的な。本当にありがたい。本来であれば枠無しでギャラにならないところを埋めさせてもらえるなんて、最初から最後までお世話になりっぱなしである。なので余計に力が入ってしまうわけで、往々にしてそういう時はイイものが出来づらい。このあたりが私が武豊とは呼ばれない由縁だ。

私のような駄目なくせに外面が良い人間は、めっぽう褒められて期待されるか、また逆にめっぽう怒られるか、あまり寄り添われるタイプの人間ではないと思われる。たぶん。目に見えないこと、耳に聞こえないことは、極力無かったことにしているので(なぜならば、元来勘が良いらしく、全てにアンテナを張っていたら、自殺しそうになったからである)、鈍だっただけかもしれないが、この前私のような人間のために怒り、機嫌を悪くしてくれている人がいるとわかって、すごく新鮮な気持ちになったのだった。

だってさ。たかだか下請けの人間に対して、自分の上司がその下請けの作業努力を汲まない発言をしたからって、普通怒らないぜ?そりゃ、機嫌は少し悪くなるかもしれないけれど、怒るってところまで気持ちは高ぶらないでしょう。

頑張るのが当然
出来てて当たり前

みたいな世界で生きてきたような気がしているので、「せっかく時間がない中急いでやってくれたのに、その言い草、その態度!」みたいに怒ってもらえるのはホント新鮮。

どんだけ飢えてるんだっつの。それがさ、だからここが、自分の生きづらさの1つの原因だと思うんだけど、ただのお世辞やその場を凌ぐためだけに社交辞令的に言ってるのか、そうでないのか、なんとなく分かってしまうわけ。だから今回のこの件については、その人にとっては、まあたぶんほんの些細なことなんだけども、私にとってはすごく不思議な体験というか、気持ちを感じる一件だった。

振り返って考えてみると、私がプロとしての文章を書けなくなったのも、その建前上のねぎらいや褒め言葉じゃなかったか。または、その逆に有無を言わせない首切り。当然褒められるために書いているわけじゃあないのだが、取材して記事に起こす時は常に「全然本当のこと、良さが伝えられている気がしない…」と思いながら書いていたので、どちらにしても手応えのない反応にますます迷路に陥っていったような気が、今振り返ると、そのように思う。