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当り障りのないことを書きます。

筋トレは疲れる

筋トレ

筋肉トレーニングの略というわけだが、人生何度目かの挑戦である。

雪がクソほど積もった今シーズンの冬ではあったが、幕切れはあっさりと訪れ、あっという間に春だぜ!と主張するような陽気となったため、今年こそは運動するのだ、1日3kmくらいは歩こうぞと決めた途端に冬に逆戻りしやがった。

単純に贅肉を落としたいという目的もあるのだが、主たる目的は体力づくりである。いかんせん、月刊誌の仕事に携わってそろそろ2年と少しが経とうとしているのだが、月の1/3は起きてから寝るまで100歩も歩かない、いや、歩くことを許されなくなるがゆえ、太ったのはもちろん、体力が激落ちくん状態なのだ。

というわけで、今年度は積極的に体を動かしていきたい所存。

がしかし、唐突に冬に戻ったため、いかんせん歩く気にならない。そんなわけで、ヨガマットを事務所の床に敷いて筋トレを30分ほど行ってみたのだがひどく疲れたというわけだ。1時間歩くよりも疲れる。疲れるということは、きっと効果もあるのだろう。主に、持久力の面で。

疲れたので(いいわけ)仕事をする気になれず、ブログを書いているんですよ。

日曜日も仕事DAYになってしまった

毎日が日曜日のようなもんだから別に構わないっちゃ構わないが、不器用なのかソレがあるうちは、ソレで頭がいっぱい。本当は効率よくシャキシャキと頭を切り替えて実作業をシていない間は占い師業を並行してやれればいいんだけど、どうしてもパソコンモニタの前に座ると、ソレのことを考えてしまって。

昨日の夜になって、予定外のものが飛び込んできて結果そうなる的な。本当にありがたい。本来であれば枠無しでギャラにならないところを埋めさせてもらえるなんて、最初から最後までお世話になりっぱなしである。なので余計に力が入ってしまうわけで、往々にしてそういう時はイイものが出来づらい。このあたりが私が武豊とは呼ばれない由縁だ。

私のような駄目なくせに外面が良い人間は、めっぽう褒められて期待されるか、また逆にめっぽう怒られるか、あまり寄り添われるタイプの人間ではないと思われる。たぶん。目に見えないこと、耳に聞こえないことは、極力無かったことにしているので(なぜならば、元来勘が良いらしく、全てにアンテナを張っていたら、自殺しそうになったからである)、鈍だっただけかもしれないが、この前私のような人間のために怒り、機嫌を悪くしてくれている人がいるとわかって、すごく新鮮な気持ちになったのだった。

だってさ。たかだか下請けの人間に対して、自分の上司がその下請けの作業努力を汲まない発言をしたからって、普通怒らないぜ?そりゃ、機嫌は少し悪くなるかもしれないけれど、怒るってところまで気持ちは高ぶらないでしょう。

頑張るのが当然
出来てて当たり前

みたいな世界で生きてきたような気がしているので、「せっかく時間がない中急いでやってくれたのに、その言い草、その態度!」みたいに怒ってもらえるのはホント新鮮。

どんだけ飢えてるんだっつの。それがさ、だからここが、自分の生きづらさの1つの原因だと思うんだけど、ただのお世辞やその場を凌ぐためだけに社交辞令的に言ってるのか、そうでないのか、なんとなく分かってしまうわけ。だから今回のこの件については、その人にとっては、まあたぶんほんの些細なことなんだけども、私にとってはすごく不思議な体験というか、気持ちを感じる一件だった。

振り返って考えてみると、私がプロとしての文章を書けなくなったのも、その建前上のねぎらいや褒め言葉じゃなかったか。または、その逆に有無を言わせない首切り。当然褒められるために書いているわけじゃあないのだが、取材して記事に起こす時は常に「全然本当のこと、良さが伝えられている気がしない…」と思いながら書いていたので、どちらにしても手応えのない反応にますます迷路に陥っていったような気が、今振り返ると、そのように思う。

思春期に高河ゆんで育つとこうなる。

アーシアンで育ったせいで、感覚がだいぶそっちに傾いている。この「LOVELESS2巻」のセリフは、高河ゆん的な愛というか、情熱というか、そういうようなものをある種体現しているのではないかと思う。

実のところ、LOVELESSはつまみ読みしかしてないけど、洗練された高河ゆんって感じかなあ。(なんのこっちゃ)

アーシアンの影艶とちはやを、別の切り口から描くと草灯と立夏になるよね。影艶とちはやの面白いというか、アーシアン自体、高河ゆん自体の面白いところは、まああの話は広義で言うとボーイズラブではあるのだけど、外からみて男らしくて優秀でリーダーシップもあって、いわゆる「男性性」のステレオタイプなのは影艶なのだけど、実際の影艶とちはやの精神的な関係は、ちはやのが夫的というかね。しかしながら、性的な関係では、おそらく影艶のほうがタチ。

これは獸木野生のパームシリーズのカーターとJBの関係にも同じ事がいえるかもしれない(もっとも、カーターとJBは健全だ!)。

そのあたりのジェンダー的な解釈が、一歩も二歩も進んでいるんだよねえ。2作品とも80年代から続く漫画作品だが、そのころ一歩も二歩も進んでいたので、今は追い越しているだろうと思いつつも、全くそうでないのがなんとも情けない現実ですね。 

 日記20180315

いつかは夜を徹して頑張らねばならぬと思っていたタイミングが今夜(14→15)だったかなと。夜中に作業をしていると悟られないほうが良いと言うけれど、残念ながら私には突っ張るほどの自信もキャリアも足りないので、スムーズに進めつつ、なおかつ、ええカッコをするためには、タフさと素早さとや!さ!し!さ!を武器にするしかないのであった。元々夜型だしね…。

というか、あっちもこっちも15日中になんとかしたいみたいな空気で、俺的にはあそこは金曜になるかな☆とか思っていたので、15日が怖いのであります。やれる作業は早めに進めておかないと、明日パニックになる自信が100%超えだよね…。それもこれも、ええカッコしいだもんでこうなる。

それにしても、自分の話で笑ってくれたり、機嫌が良くなってくれたりする女の子は本当に癒やされますね……。中身がおっさんだからなのか、年をとって、どうやら若い女性を敵視するほうじゃない方向に進路をとったからなのかわからないが。

断続的に忙しくて余裕がないねえ

どうせあんまり読まれていないってのをいいことに気楽にいこう。

引き受けさせてもらってる雑誌が増えて、ページ数も増えたので局地的に忙しい期間があったりで、その後は割とぐったりしていて人間失格みたいな感じ。かくいういまも、割りと仕事はスタックしてて、さっさと手を付けたほうが良いんだけど。つらつら書く。

新井英樹・著の「宮本から君へ」が実写ドラマ化

定本 宮本から君へ 1

定本 宮本から君へ 1

 

 漫画家・新井英樹といえば、『おかめ日和』と『のんちゃんのり弁』と『たそがれたかこ』で有名な入江喜和の夫である。もともと『おかめ日和』を読んでいて、そこから『たそがれたかこ』で、「マジか!」と驚き、その夫の漫画にも手を染めたが、なるほど狂っている。

とにかく熱量がおびただしい。漫画ってこの人のためにある表現方法なんじゃないかなと思うほど熱い作品を量産していて、どの作品の主人公もある面では天才でクレイジー。一貫して天才の孤独とクレイジーさを表現しているような気さえする。

この宮本は、ある意味では天才なのだが、凡庸の中の天才、いや、凡庸の天才というのだろうか。真っ向勝負・正面からしかぶつかれない不器用さの天才っていうんだろうか。そういう男の物語であり、夢中になって読める漫画の一つなのは間違いない。

しかし、この2018年に実写ドラマ化してウケる世界観だろうか?それとも、こういう世界観がウケつつある世間になっているのだろうか?

思う所あって実写化を企画したのだろうけど、この世界観を現代に持ってきて果たして”良さ”が表現できるのだろうか?

余談だけど、入江喜和がBELOVEで新連載をはじめていた。ざっと雑誌で読んだが、おそらく単行本でまとめて読むと良さがわかる系の作品のように思う。期待している。

しかし、本当にね。電子書籍でザッピングのように漫画を読む世代にウケる話の作り方と、コミックで読んでおもしろさをシミジミ感じる漫画がどんどん剥離していっているように感じるね。

後者のような漫画作品は、あるタイミングでコミック一冊分ぐらいの無料提供があってもいいのかもしれないな。

いろいろ

色んなとこで起きてる不具合や齟齬っていうのが、もしかして全部一つのことに起因しているのではと、ふわ~っと感じ始めちゃったりして。だからといってどうにかするとしたら、ゼロかイチかってことになると思うのでそれも実はしたくない。

それはともかくとして、奴隷のようにしたいけれど、奴隷以上の働きを求めるような考えであれば、まあそれには抵抗するよ、そりゃ私。なんでもハイハイって言っていれば、そりゃツカイヤスイでしょうけどね。こちとら何の保証もないわけで、せめて言いたいことぐらいは言えないようでは、やってる意味がない。

できる限り無茶振りにも対応するのはさ、タコ部屋にいた時からのことだから平気ではあるけれど、通すべきスジってもんがある、でしょう、たぶん。頭を下げろとか、金を出せとかそういうのではなくてな。

いろいろもやもやするな。

愚痴くらいは静かに聞いて欲しい。

相手がコミュ障(自称:対人能力に問題あり)だからなのか、意識しておかないと気持ちよくコミュニケーションができないシーンがある。

それは、ネガティブな感情を相手に吐き出したい時だ。とにかく、そういう時の受け取り方がうまくない人で、一時的にでも共感してくれれば多少の溜飲は下がって、その後のド正論も静かに聞くことができるものだが、まあとにかく最初から最後までド正論でくるから気分が鎮まるものも鎮まらないわけだ。

私としても日常のうち100%わがままに調子こいて好き勝手に発言しまくりたいわけでもないし、甘えたいわけではないんだけど、ロボットではなく人間なので精神的に寄りかかったり受け止めてほしかったりする瞬間だってあるわけですよ。

肉親にも精神的に寄りかかられすぎて、親子逆転がしんどくなって距離を置きっぱなしなので、私がそういうホシの元に生まれついてしまった説と、自分がそういう人を選んでそばにいるという共依存説があるんだけど、たぶん私の性格の問題なのでしょう。

わりと堪忍袋のヒモがしっかりしているというか、まあ、これは性格というより肉親が留守がちな父親の代わりを私に振っていたためだと思うんですが、自分の感情の喜怒哀楽が手に届きにくいっていうんですかね。瞬間的にその湧き出た感情がどんなものなんかを判断するちからに欠けているせいで、結果的に許容範囲の広い人ってことになっているんだと思うのだな。

そんなだから、相手は私がナニをどうしたって怒ったり悲しんだり喜んだりしないって刷り込まれているフシすらあるわけで。ちょっと不機嫌な素振り・わがままな素振りを出すとメンタル的にボッコボコにされるわけです。(あ、親からもね)

それゆえ、自分のしたいこと、嫌なことそのた諸々が、どの程度の主張なら受け入れられて、どの程度になるとワガママになるのか、判断がつかないんだよね。

フツーさ

逆だと思うんですよね。普段、怒らない人が怒ったら「それはホントに怒っているのだろう」みたいなね。そうなるでしょ、フツー。私の場合だと、更に上から被せられるだけだもんね。

だからストレス溜まるわけ。

さっきだって、私があるネタを3回位説明していて、何回説明してもなにも覚えてくれてないようで、そのネタについてテレビでやっているのを見て、あたかも初めて知ったかのように聞かれたら、そりゃ、不平の一つも言いたくなると思いませんか。

「私それ3回位アナタに言ってるんですけど。ホント、私の話に興味が無いというか、聞いてないよねw」

っていったら、ガチで拗ねて不機嫌になるとかで。「じゃあもう二度と聞かない」とかいうわけですよ。

おかしいよね?

面白くない気持ちになるのは、むしろ私のはずだと思うんですが。私が謝られてしかるべき流れだと思うんですが、私の感じ方がおかしいんでしょうかね?

「あれー?まじかwごめんねw」って言ってくれれば、それで済む話なんですけどねえ。まあだから、何が言いたいかって言うと、どこまで生きても私がメンタル的に寄っかかれる相手なんて皆無であり、どこまでいっても孤独なんですよね。受け止めてばっかり。寄りかかられてばっかりの人生ですわ。

あ、メンタル的にな。

わたしだってたまにはメンタル的に優しく甘やかされたいんですけど!他人に!キャバクラとか風俗に行きたくなるのはこんな瞬間なんでしょうかね。